自分自身の考え、そして行動

大学院行きを決めるにあたり、悩んだ末、
結局自分が何を研究したいのか分からなくなった。
一時は電子計算機、
あるときは建築
(今考えると、大きいものを作りたいというよりは
世の中のよく分からないものが
とにかく大きいと感じていたのかもしれない)、
あるときは教員、
またあるときは原子力
そして光合成人工知能脳科学
 
今時代はどうなっているのか?
 
間違いなく自分は、
今置かれている現状と
実際に見たり聞いたりして獲得したイデオロギーとに
違和感を感じている。
世の中をうまくつかむことができない感じだ。
 
世の中は、時代の変化に対して状況の把握が間に合っていないように感じる。
いや、何かひとつの部分はものすごく速く変化していて、
それに付随して変化するはずのものが、
近年の新しい技術によって変化しなくなったような気がする。
 
自分が働くまでのプロセスが、ああいう就職活動である必然性がよく分からない。
仕事場を直接見学して指導をうけ、興味があればそこで働く。
実力があれば評価される(重要)。
そういう世の中になっていない気がする。
 
今順番はまるっきり逆ではないか?
実力はさておき、大学名で評価され、内容を聞いて興味があれば入社。
説明を受けてようやく現場。
そして合わないと感じたりする。
当たり前ではないか。
 
昔はどうだったか。
たいてい親のあとを継ぐ感じではなかったか?
そこには、職業技術だけでなく、文化の伝承も行われていたのではないか?
 
そこまで昔でなくてもメールがない時代はもっと面倒くさいコミュニケーションが
多々行われていたはずである。
しかし、そのときに得られるものが実はあったのではないか?
実際に行って聞いてみる、というプロセスが抜け落ちることによって、
消失したものがあるのではないか?
 
ここへ来て、三宅先生の「身体への注目」というキーワードと関係がある気がする。
Web上で情報を取り入れて、メールでやり取りするだけなら、身体はいらない。
仕事をする上ではこれが速いし、こういう手続きが今は理想とされている。
でも、研究室を決める(これに限らず)にあたってはこれだけでは足りない気がする。
実際に研究室へ行って話を聞くことは面白かった。
そう、実際に行ってみるという面白さが電子化によって失われるのではないか。
逆に非身体性うまく利用すればそれを得ることも可能なのか?
身体性が失われてなお、さらに身体性を浮かび上がらせることは可能なのか?
身体性の消失によって人間は何を失ったことになるのか?
 
こういうテーマも面白そうだ。
 
そしてここまで考えがまとまったら、行動するしかない。
 
ところで、今の自分の欲求は何か?
どこかすごい会社に入ることだろうか?
いや、自分が入ってすごい会社にすることのほうが面白い気がする。
もちろん、謙虚に学ぶべきところは学ぶ必要もあるし、傲慢になってもいけない。
他人との協力を惜しんでもいけない。