現場

なんだかいろいろなことから逃げ出したかったので、90分ほど散歩に出かけた。
川沿いを歩いていると鴨があちこちで何羽も見つけられた。
何をしているのかと眺めていたが、何もしていない。
ただ、川を泳いでいたり、岸で毛繕いをしていたり、水に首を突っ込んでいたり。
ほんとに何もしていない。
魚が泳いでるから食うのかと見ていたが、まったく興味を示さない。
腹がいっぱいなのか?
こっちは常に何かしらやらなければならない、かといって明確なノルマがあるわけでも、締め切りがあるわけでもないような、とてつもなく膨大な課題が山積みな一方で、
鴨は何もやることがなさそうだ。
今度食ってやろう。
 
公園を歩いていると、犬やら子供やら見かけたが、犬のほうが多かったような気もした。
少子化、ペットブーム。
 
そして色々立ち寄って、帰宅。
思いのほか時間がかかった。
部屋に戻って物思いにふけっていると、ふと、
部屋の中には、部屋以上の情報はないなと思った。
ゲームにしろ、テレビにしろ、本にしろ、ウェブにしろ。
テレビや、ラジオや、ウェブは外から入ってきた電磁場によるものだが、その相互作用を受けている部屋の中のものから情報を得ているのだから、
やはり部屋以上の情報はない(とはいっても部屋の中だけでも十分膨大なのだが)。
散歩したところは散歩したところだけの情報を持っている。
テレビなどから得られる情報は、現場から得られるものに比べればはるかに少ない。
テレビからは「その場にいた人間が認識したもの」しか得ることができない。それでも遠方に伝えたいものが伝わるというのはまことに画期的であるが。
「自分で認識する」ことはできない。
こればっかりやると、自分のアンテナが腐りそうだ。
 
掲示板の管理やらやっていると、みんなどうして書き込まないのか、と思ったりするが、
やはり実際に会うということに重き重点を置いているのかもしれないとも考えた。
文字列だけでは、補いきれない情報など無限なのだろう。
それをなんとなく肌で感じ取っている人は、あまり掲示板に書き込まないのかもしれない。
 
それにしても、だいぶ疎遠になった人から連絡が来ないのはなんだか寂しい。
 
 
ああ、そうなのか。いまさら。
実際に会うのは会話が問題ではないのか。
いや会話も問題のひとつだけれども、その人と何回目が合ったか、服装は、表情は、振る舞いは、周りの状況に対する配慮は、そういうところも実際に会うことの面白みでもあるのだなと今つくづく感じた。
文字列だけのコミュニケーションをやっているとそういう部分は抜け落ちる。
逆に言うと、文字列だけのコミュニケーションをやっているから、今そういう部分に気づいたともいえる。
まあ、実際に会ってみても本心を見抜くことはできないけれども。
そして、自分の本心さえも実は曖昧なのだけれども。
 
まあ、こんなこと書いてないで、山積みなっている課題を少しづつやっていくしかない。
ハイレベルな生き方をするために、納得して死ねるように。