小学校卒業文集

この連休で少し心に余裕ができた(時間的余裕はなくなったが)。

以前、Tさんに会ったときに、
「Hちゃんの卒業文集を読んだ?」
ときかれた。Hちゃんは昨年白血病で亡くなった。
そういえば、まもなく1周期が経とうとしている。
遺体を直接見た訳ではないので、未だに実感が湧かない。
いや、彼女の記憶全て、自分の中から薄れつつあるのかもしれない。
 
卒業文集を開いた。
小学校の卒業文集というやつの思い出は書きたくて書いたというよりも、書かさせられ記憶がある。まるで卒論だ。
4年のときの学級文集のほうが生き生きとしている。
で、Hちゃんの文集。


なんというか、彼女の生き方そのものが書かれていた気がする。
体の無理より、心の方が先に動く。そんな生き方だ。

全体的に、卒業文集を見ていて思ったのは、
キラキラしているということだ。自由に、明るく。
そして自分の書いた内容に覚えがなかった。
これはショックだった。
自分は子供のときの感覚を全く覚えているつもりだった。
だがそれは全く勘違いだった。
 
今の自分は何なのだろう。
そして、あの輝きはなんだったのか。
あの輝きこそが、これから生きていくうえでの支えになるのではないか。
 
4年の文集はどの友達の文章も文法、語法はめちゃめちゃだが、気持ちが乗った文章だ。
自分は気持ちの乗った文章を書いていただろうか。
 
近頃感じる、他者との違い、ここにあり、ではないか。
 
今の自分は怒っているのか悲しんでいるのか喜んでいるのか恐れているのか怯えているのかさびしいのか。
ただ、科学の概念に気持ちは関係ないということだ。
これは今考えている人間的要素ではない。
この文体自体論理構成されていて気持ちはない。
 
何が好きとか嫌いとか、最近あまり考えていない。
そうそう、悔しいという気持ちだけは生まれてこのかた、なくした事はない。