就職あれこれ

なぜ物理学科に入ったかといえば、もっと哲学的視点で物事を考えようとした結果である。
きっかけは「人間機械論」が大きいように思う。
この本に至る経緯は少し長い。
 
僕が中学生時代(今から10年ほど前)にバカ売れした本があった。
それが、「超勉強法」である。
それを父親が買ってきた。
当時はミーハーな父親の道楽だと思い一笑に付していたが、たしか大学受験の前あたりにそれを一度読んだ。
その1ページ目の裏にノーバート・ウィーナーの「Human use of human beings」の翻訳である「人間機械論」からの引用が書かれていた。
僕はその引用内容よりも「人間機械論」という言葉にのみ心に残り、その後しばらくしてから地元の図書館で借りることができた。最初は難解でとっつきにくかったが、意味のある本であるという確信があり、さらに後にもう一度借りたがとうとう欲しくなって、大学4年生のときに紀伊国屋書店で購入した。
 
この本のすごいところは、50年近くも前にパソコンの価格のおおよそのところを予言しおおよそ当たっていることである。
 
この本は、人間という存在が宇宙においてなんであるか、これから人間はどうして行くことが合理的であるかについて書かれている。
まだ第一章までしか「解読」が終わっていないが、これからの「就職など」を考える上で重要になってくるであろう。
 
今の疑問は「仕事」を始める上で「就職活動」が必要かどうか、
もっとあるいは人は「生活」と「仕事」を分ける必要があるのか、
という疑問である。
医者やレスキューといった仕事はおおよそ「肩書き」がなければやっていけない仕事のように思う。そういう意味で「生活」と「仕事」は分けるべきであろう。
生物学的にも交感神経と副交感神経のバランスは重要であるらしい。
 
ただ、「生活」をしていく上である程度の緊張感が強いられるのはおそらく当然で、今の日本におそらく欠落している。
 
やりたいことを仕事にする、というのも一つの考え方であろう。
 
というよりも、やりたいことを仕事にしている人とやりたくないことを仕事にしている人がいるということだろうか。
やりたいことを仕事にしている人は幸福だろうが、やりたくないことを仕事にしている人は不幸であろう。
 
歴史上、「仕事」は明日のパンを買うためのお金、あるいはお薬を買うためのお金、それらを稼ぐための手段であるという側面がある。そして「仕事」が発生する理由は、他人が生活するうえで困難を強いられており、その他人を助けることが「仕事」であり、その他人が助けを得たために払う代価が「お金」である。
つまり、もともと仕事は「生活」から発生するものではなかったか。
 
それがあるときは「士」「農」「工」「商」であったり、あるときは「金融」、「流通」、「生産」、「サービス」、「インフラ」であったりするのである。これらは確かに我々の生活を支えており、いまや不可欠である。
 現在は「B」to「C」のほかに「B」to「B」to「C」という形態も存在して職種も多様化し、人々の需要も日々変化しており、「仕事」という概念は複雑になった。
 
絶えず悪事によって他者から財を奪い生活している人間も存在しているが、
人類と環境をある程度エントロピーの低い存在にしてくためには、その選択肢は不適当であると考える。
 
で、これから自分はどうするかということである。
とにかく今の自分の生活を振り返り、何によってその生活が成り立っているのか考えることである。
ある面で「親」の存在は大きく、彼らがいなければ生活費も学費もなく、料理も洗濯も全て一人でやらなければならなかったはずである。
よって、今度は自分が「親」となる宿命は十分にあるのである。
それはさておき、その「生活費」、「学費」を支払うことによって得られる「代価」を提供している人達は誰であろう。
部屋を見回しただけでも、これはもはや数え切れない。
千年ほど昔は部屋の中のものは自然の中から得たものがほとんどであったのだろうが、今の部屋の中はほとんどが一度は人が加工した「人工」のものである。 
 
「政治」の仕事は歴史上、人間を道具として考えることで成り立つ側面があったが、長続きしなかった。現在はそうではないから、もしくはそうではないと人間に思わせているから成り立っていると考えられる。
人間を人間の下等な道具として使用することはこの世界に対する冒涜であるとウィーナーは語る。
 
さらに、自分はどうするべきかと考えれば、やりたいことができるような社会にすることである。
これ自体は、小さな努力で可能なのではないか。
ともかくも、自分が自分らしい生活を行っていく上でもっとも頼っているもの、
それを仕事にできないかということを考えるべきである。