人間として生きるとは

        • ・この記事は9/8に書かれた物である。


ノーバート・ウィーナーの評価は「人間を人間未満の資源として利用することは不毛なことである」というものであった。それをふまえれば、人間は人間の持つ能力を最大限に引き出してこそ、有益な存在であるといえる。
ただ、そこには方向性の問題が解決していないように思えてならなかった。能力をフル活用するのは良いとして、それを何にあてるか?
ふと感じたのは、「アンチ」であることが生きることであると思った。川の中の水は川の流れを作るものであり、川の流れそのものであり、川の流れに逆らうことはない。よって川の中の水は川に対して死んでいると言える。逆に川の魚は、時に流れに逆らう。その魚は生きているといえる。
部屋の中を動く害虫は、人間にとって困ったものであるが、部屋の中では人間以外のものは本来止まっているべきものであるから、部屋の中を動き回っている昆虫は生きているといえる。
では、人間について当てはめると、例えば、人間は宇宙について知らなければ、宇宙に対しては死んでいる。社会の仕組みについてよく分からなければ、社会の支配下に知らずのうちに組み込まれて、社会そのものになってしまい、社会に対しては機械、すなわち死んだ存在となる。奴隷が機械であればよいならば、奴隷に知識を与えなければ良い。しかしながらその発想はノーバート・ウィーナーの考えに反する。機械は人間の命令に逆らわないので人間に対して死んでいると言える。養殖の魚もいずれ食べられるという運命を背負っており、自由が失われていることから自然にとっては生きているといえるが、人間にとっては死んでいるも同然である。
 
つまり、この世界で人間として人間らしく生きていくためには、知りうる限りの知識を吸収し、活用し、この世界に対して変動的であっても主張を持って生きることが求められるのである。 
 
この発想は中央公論から得ている。ここで気をつけなければならないのは、本当に自分が生きている人間になるためには、他人の評価を鵜呑みにするのではなくて、結局のところ自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の感じたところを基準にして主張を展開しなければならない。
 
色々と視察を始めなければならない。