不安で、気持ちが悪い

いっそ、何かに完全に熱中し続けられるならそうしたい。
たぶんできる。
 
だが、それは不安である。気持ちが悪い。
 
小学生のときはそれができた気がするが、
今となってはそれをやってはいけないと教わってきた気がするし、経験的にもそんな気がする。
いや、時間と優先順位を決めればいいのだろうが。
 
今は、時間の使い方が前例のないほどに自由である。
これがリズムを崩す。だから時間を決めなければならない。
何を根拠に?
そんな難しいことができるのか?そんなに難しいことなのか?
しかし、これと向き合ってしまうと広く考えられなくなる。
細かいことばかりに眼が行って、全体を見渡すことができなくなると思う。
 
一方で、自由であるためには義務を果たさなければならない。 
今果たすべき義務は、
・自分の自由な研究を行うこと(全事象を体系化する仮のモデルを作ること)
・自分のやりたい仕事を見つけて職を就けること
どっちも義務でありながら自由を内包するものだ。
これから仕事というのはそういうものになっていくのか。
自分の思う選択をしていくのが仕事になるのか。
とにかく、現状の打破は没頭できなくても何とかするしかない。
 
今は未来の自分がこれっぽっちも想像できない。
どの予測も間違ったものであるように思える。
あるいは地震で死ぬのか。
 
昔は、バブル期のときは色々と予想できた。
日曜日の朝の番組、横浜からの夜のドライブなどなどから。
未来が明るいものであるように見えた。
 
今は色々と知っていることが多すぎて、昔と見える未来が違って見える。
常に現状は不完全であるという認識である。
これはまあ当たり前だが、これまで積み重ねてきたもの、経験を全て崩さねばならないと思ってしまうのである。
資本主義、民主主義、動物愛護、男女同権…
どれも完全な間違いではないだろうが、worseであると感じられるのである。
 
あるいは人間の存在そのものも現状ではworseであるとも感じられる。
 
よりbetterな方法、あるいは人間がbetterになる方法はおそらくありうるのだろう。そのための努力としては自分は何ができるだろうか?
 
そう思って教職をはじめたのだと思う。
そして、勉強不足を思い知っただけであった。
じゃあ、まじめに勉強に没頭するか?
それは不安で、気持ちが悪い。
 
もし生業にできて、没頭できるならおそらく幸せだろう。
だが、よりbetterな方法が「没頭」によって生み出されるのか?
 
生徒会で勉強や部活以外のこともまじめにやる必要があった。
高校ではアメフトが最優先であったが勉強も大事であった。
スキーで人に怪我をさせてから、自分の夢中は怖いものであるように思った。
 
真剣にやりすぎると一方がうまく行かない、あるいは迷惑が掛かる。
そんな風に考えているのかもしれない。
だがこれは一方では当たり前のことなのか。自分の欲求を満たすために他者を傷つけない方法などないのか。
 
タダタダ今の確信は、
・「没頭」は不安で、気持ちが悪い
・「自由」のためには「義務」を果たすべき