反省

よく考えるのが、
ああ、なんであのときこうしなかったのか?
という後悔。
 
が、そのときそのときでの考えがあってのことだってある。
 
今色々といまいちうまく進まない。
あとで絶対、後悔するだろうが、そのときの軽い言い訳を残しておくことにする。
 
1.体力の衰え。
2.時間を細かく縛るものがない(よって起きるのが遅かったり)。
3.新しい発想、視点が勝手に浮かび上がる。
4.根本的な部分(自分と社会と宇宙とは何か?あるいはその関係は?)に対する認識が浅い。
5.やる気が沸かない。やる気の沸くものがない。
 
1,2は心がけ次第だと思うが、3.はどうだろう?
常に、自分の行動の基準が移り変わるような状況で、どうすればよいのか?
 
が、これは将棋で言うところの「相手」なのだろう。
常に状況が変化する中で手段を変え、自分自身も変えていく。
さらにその中で、3,5,7手先を読んで、意味のある行動をとっていく。
そういうものなのかもしれない。
膠着状態でも必ず駒を動かさなければならない。
だから、少なくとも端歩は突いておくべきなのだろう。
ただ、これまではひたすらに端歩を突いてきた気がする。
 
最後に4。
将棋は相手の玉を取るのが目的だが、自分の目的は何か?
それを社会に委譲してしまうとすればどうすることなのか?
(↑誰かに隷属すると言う意味ではなく(天は人の上に人を作らず)集団の一個人として生きるという意味)
これがなんとなくでも決まらないと、相手玉不在の将棋を指すようなものである。
一つには幸福の追求(幸福の定義はないけれども)。一つには子孫を残す。一つには国を残す。
星新一は、人類はまだまだ赤子のようなもので、これから意味が発見されていくかもしれないから、とりあえず人類が長く生き残れるような努力をするべきだと述べている。
そういうものかもしれない。
残ること、すなわち宇宙の終わりまで生き続けることが最大の目的なのかもしれない。
 
そのための意味のある行動ができるように、常に勉強し続けることだ。
 
これで、大体の大義名分は出来上がったが、やる気にならない。
ついつい、歴史が残るためにしてきた努力を消費してしまいたいという欲求に駆られる。
人の心は低きに流れるか?自分の心もまた低きに流れるか?
 
昔、教職の先生が「大いなる世界」から呼び出しがある、と言っていたが、
さてそんなものがあるのか?
常に疑問を持ち続けろとも言っていた。
疑問を持ち続けすぎているのか?
 
今は小学生のときのように全力疾走ができない。色々他の事を考えすぎている。
 
そういえば、「やる気」は他者との相互作用で生まれると誰かが言っていた。
引きこもりがちなのだろうか?