本当に正しいこと2

平成8年2月3日、今から11年前になるが
僕は中学生のつどいという場で発表した(これらの記述から私が誰であるかは分かってしまうが、それはもはや重要ではない)。
 
その発表直後、あるいは発表直前、発表中に「この内容は不完全である。まだ盛り込むべき内容はあるはずである」という思いにとらわれていた記憶がある。
 
今だからこそ、これの修正版を書くべき思いにとらわれた。
 
「本当に正しいこと2」
 
「本当に正しいこと」、などというものはない。
その世界観の根拠は、宇宙において人間がこの世界で生きていることを承認するものなど何もないからだ。
今の人間が生まれた経緯は今のところ生物の進化によるものと考えられており、様々な種の変異が起こる中で、この自然世界をある程度高い次元で認識できる生物が生き残り易く、その結果人間という種「も」残ったというだけだ。
だから、人間が自分勝手な判断で「これが絶対に正しい、これが絶対に悪い」というのは、全く傲慢である(余談であるが、地球上の生物で人間が最も知性の高い種であると考えられているが、逆に言えば、「生物」という概念そのものが人間を基準に、人間が頂点に君臨するように定義されたものである。高次のフィードバック体自体を生物と呼ぶのならば山や川、天候、生態系、ウイルスや病原菌の進化の過程そのもののほうが、人間一単体よりもよほど高度といえよう。要は自分より高度な存在、あるいは自分とは時間の軸の異なる存在を認識することは容易ではないということである)。
よって、「本当に正しいこと」など存在しない。
 
では、本当に正しいこと」が存在しないとすれば、我々は、あるいは「わたくし」個人はこれから何をすべきなのか、何を基準に行動するべきなのか。
 
この解は根拠がないが、とにかく「生き続けるべき」であると考える。
死んで戻ってきた人はいない。
絶滅して復活した種もいない。
よく絶滅に瀕した種を守ろうという働きがあるが、あれは我々生物の可能性が失われることが今後何億年か生きるうえで問題になりうるからである。
「生きる」ことは連続性を意味する。この連続性は一度途切れてしまうと、元に戻らない。逆に言えば、いつでも終わらせることはできる。
この連続性は容易に放棄してはならない。
 また、連続性の過程で、多様化、高次化、合理化が起きている。この発展の先に、より巨大な意義、意味が存在しているのではないか?現在の人々の問題は、「自分」と「他者」との問題である。これらを克服することが、この宇宙における目下の使命とも言えなくないか?
 
この目的のために、多くの勉強、多くの経験を積んでいくことこそ我々の行動の根拠である。
 
現在の学問の区分はいささか偏りを加速させる働きがある。これを一度解体し、見直しを図っていく必要がある。
 
 
巨人の肩の上に立つ