心のみ死ねと、自我のみ死ねと

学会前、もうとにかくやるしかなかった。
とにかくやるしかないとわかっていても、違うことをやろうとしたりして、
自己嫌悪するときもあって、そんならいっそ、
自分の自我がなくなって、マシンのようにその作業をし続ければよかろうと思った。もしくは、今の自分の自我を放棄して別の「自我」に全部任せてしまいたいとも思った。本当は魂は抜けているけれども、はたから見ていると自分は死んでおらず自分は生きているように見えるだろう。
じゃあ、子供のときの自分の自我と今の自分の自我は同一のものであるだろうか?
教職概論で「前の魂が死んで新しい魂が個人に生まれることがある」という話をしていた。たしか、ヒカルの碁に出てくる佐為というのはヒカルの魂の一部であるという説である。小さな子供が、お花と話をするとか、妖精が見えるというのもこれに似ているらしい。とにかく、死ぬ魂と生まれる魂が日々刻々と存在し続けているらしい。
 
バカの壁を読んでいて思い出した。
 
養老孟子バカの壁は、星新一ショートショートに似ている。
NHKにようこそは安部公房の壁に似ている。