書きなぐり

物理学≠physics?
理科の国際的なカリキュラムと歴史に注目する。
年齢は関係ない勉強しろ。特に教養。
日常に応用される理科。
難しそうな式もきちんと説明されれば難しくない。
 
福沢諭吉のいう学問は教養とは異なる。工業に役に立つ知識について言っている。なぜなら、幕末の人々の教養は優れたものであったといわれているからだ。
あのとき、飢饉や疫病、大地震がなければ未だに日本はああいう文化だったのかもしれない。しかしながら、鎖国体制は昔と変わっていないのかもしれない。
 
人間余った時間を教養に当てるべきか。
 
昔は、大学なんてみんな入るもんじゃなかったから、小学校、中学校、高等学校で学ぶことそのものが、意味のあるものだった。その中でも専門を極めたい人は大学にいけばよかった。
今は、大学へ皆行くから、どの大学が良いとか悪いとか比べるようになった。で、小学校、中学校、高等学校の勉強は大学へ入るための手段となった。
手段としての受験としての間接的な学問はつまらない。
しかし、企業はどこの大学出かなんてどうでもよくなりつつあって、
結局、基礎学力と、大学時代何に努力したか、コミュニケーション能力があるかを見る。これは時代ごとに変わるんだろうが、こんな話は聞いたともなかった。
いや、言われていたんだろうけれども、気がつかなかったのかもしれない。
大学が太りすぎたのだろう。
改めて生活技術としての学問に注目しなおすべきだろう。
 
学力低下は教え方とかそんなんじゃなくて、人間の生活の下地が全国的に疲弊してきているためである。昔はそういう下地がしっかりしていたのに、企業だか国だか資本主義構造だかがそれを食いつぶしてしまったのである。家庭や地域、伝統や歴史、そういうものが弱りに弱って、人がマシンのようになってしまいつつあるのが今の日本である。人間らしさなどもはやどうでもよくなっているのが今の日本である。それは高度経済成長期のせいだろうか、あるいはバブル崩壊のせいであろうか。
 
測定とは、現物から物差や秤を用いて情報を引き出す作業だ。
 
イレギュラー社会:常に情報源も変化し、規則正しいことができない。
 
温新知新時代。
 
罰ゲーム構造。それをネタにするメディア。
 
アイデンティティーなるものが欲しければ歴史を学ぶしかない。
 
もう今の日本はどうなるのか、これから人類どうなるのか。
このまま行くと結局、人々のエゴだけ増強して豊かな資源や文化は消滅し、人はより一層、己の個人的な欲望を満たすがためのマシンとなって、最後にはとうとう消えてしまうのではないか?「ぼくはおこった」のように。
 
そしたら自分はどうすんのか。
もう手に負えない、って投げ出して、人生を全うするためだけに生きるか。
それも、重要かもしれない。自分自身が生き残るために。
 
じゃあ、もしそれがいやなら、そうならないための努力をするか。
そうしたい。でもどうしたら良いか分からない。
もっと勉強しないとだめだ。特に歴史とか。
 
本質を見抜く力、が必要だ。
 
人と社会の関係、自分と社会の関係。
 
偶然の力、カオスの力