となりのトトロ?

子供にしか見えないものがある。
 
サンタクロース?トトロ?
 
だが、確かにある。それは分かる。
涼宮ハルヒの憂鬱を見ていてそう思った。
とてもパワフルで、できないことはないと思わせてくれる。
「なんか面白いことないかなぁ」という憂鬱は誰にでも共感できることで、
それを圧倒的な行動力でこなして見せるのハルヒなのである。
変な名前である。アイデンティティーがある。
トトロと書いたが、宮崎駿が描こうとしている少女も似ている。さつきやメイに。
 
パプテマスシロッコは世界は女が作る時代になるというが、
昔から、世界は女が作っている。男が気がつかないだけだと思う。
世界的に代表的な絵画がモナ・リザであることもうなづける。
書いたのは男だけれども。
 
涼宮ハルヒエヴァきまぐれオレンジロードの系列作品だと感じた。
引用はしているだろう。
世界が個人の主観であること。フルオヤの「というわけであり…」など。
 
なぜそう思ったかといえば、就活のせいである。
現実と理想の狭間だからである。
複数の枝分かれする想像の人生と実際に選んだ道。その違いが顕著に現れる。
そして、人類の歴史はまだ浅いということである。
 
で、子供の概念とアニメは近い。いや、アニメのほうが狭いけど。
ドラマが実在する役者と現実を舞台にせざるを得ないのに対し、
アニメは世界観が自由である。
一方で現実の中になければならない同一性を含むから話としてはまとまる。
アニメの可能性は無限大である。漫画の可能性も無限大である。
ひょっとすると日本の過剰とも思える発展は、
こういった文化に向けられることで人類の進化につながるのだと思える。
可能性の消滅、すなわち「死」。
死にたいと生きたいの狭間には憂鬱が隠れている。
 
子供には、確かに子供にしか見えないものが見えている。
子供のときに見えていたもの、それはビルの向こう、山の向こう、空の向こうであり、その空気である。なにかあるんだろうなという。なにがあるんだろうという。これから先どうなるんだろう。これから先こんな風になるんだろう。おばけ。
大人になると見えない、もしくは見えにくくなる。今はお化けは怖くない。もっと怖いのはメトロポリタンミュージアムであったり、パンを踏んだ娘であったり、学校のチャイムであったりするのである。あの圧倒的な威圧感。
 
見えなくなったけれども、見えなくなったことを自覚している人達がいる。
それが、宮崎駿だったりする。
最近話題になるアニメのクリエーターの人達はそういう人達であるように思う。
 
思春期やら24歳という年は、現実と可能性の両方が見える。だから不安定であり、そして最も豊かな時間である。家の中にいて、なんだか普通の人が見たら損なゴールデンウィークに見えるかもしれないが、外出は刺激が強すぎて感覚が閉じてしまう。本を読んだりネットにある面白いものを掘り出す良い時間となった。そう思いたいだけなのだろうか?それにしても、ディズニーへ行ったとか、旅行に行ったとかはどうやら自分には面白いことであるように思わない。車を買うとかやたらおいしいものを食べに行くというのも他の人ほど熱望しない。
自分自身の内的宇宙という言葉が思い浮かんだが、これが自分の趣味なのだろう。
 
で、サンタクロースがいるのかどうか?
まあ、いるな。町で看板持ってたりする。
「あれは偽者だよ。」という人がいたら、
「じゃあ本物がいるんでしょ?」と問いたい。
やはり、サンタクロースという言葉がある時点でやはりいるのだと思う。
人の認識の中に。
子供は、3次元の現実と、認知した現実に区別がない。
正確に言うとどちらも現実で、大人が3次元の現実を「現実」とよび、認知現実を「空想」あるいは「妄想」とよぶのである。仕事に認知現実を持ち込むと大変なことになる。他人とコミュニケーションをとることができない。共有できるものではない。
 
しかしながら、これからの人間の幸福を考えたときにこの認知現実と大人になってもうまく付き合っていくことが重要なのだろう。
「大人になっても子供のようなことばかり行っている。」と言われるかもしれない。
しかし、だったらなぜ、猿から人に進化するときに未熟である時間を増やす必要があったのか?ここに人の進化の可能性の鍵があるように思う。
 
サンタクロースやトトロはいると思うからいる。
逆に目の前にあるノートも実際本当にあるのかは分からない。