かへいけいざいのそとがわ

これまで、というのは何であったか。
これまでというのは学会が終わってからその後の就職活動の顛末である。
実際まだ末ではないのだが…。
なぜこんなことを考えるのかと言えば、まあ、何かおかしかったからである。
おかしいのは、まともな会社から内定が出なかったことである。
さらにおかしいのは、自分自身が内定の可否にさしたる興味がなかったことである。
 
なぜか?
それは、自分の視点が宇宙の果てやら、1000年先の未来やら、100万年前の地球やら、自然、社会、人間をコントロールする力などに向いていたからである。
 
で、我に返って、というのは父にしつこく当たられたからであるが、ようやく就職活動を振出から考えることができるようになった。
なんとなく、大金を稼ぐ仕事には否定的なイメージがあったが、解釈によっては多くの貢献ができる仕事とも考えられる。また、ある程度質の高い生活を営むには700万円程度の年収が必要であることが分かった。人間が幸福になるための十分条件が高収入かどうかは分からないが、この時代の日本である程度の幸福を得るにはその程度の額のお金が必要であるのはもっともなことのようである。
 
よってこれまでの就職活動はどこか社会科見学だったのである。
頭のどこかでは、やはり教師になることを考えていたようだ。
しかしながら、現実問題もはや教師になる道は絶たれた。
1年待てばよいのだろうが、寿命は無限ではない。
そういうところまで来てようやく眼が覚めたとでもいえようか。
 
これまでの日記を見直してみると、その変化の流れがよく分かる。
 
しかしながら、「宇宙的視野」というのはこれからも持ち続けなければならないと思う。
ただ、この視点をクソ真面目に持ち続けてそれを本職にできるのは
子どもと裕福な学者だけである。
よって、もし自分に十分な金があれば、この「かへいけいざいのそとがわ」に戻り、
この世界の行く末を見据える人物となりたいのである。
その両立の模索をしていたのがこれまでの就職活動である。
 
人類が貨幣経済を採用したのはいつごろか?
日本では西暦708年に和同開珎を採用し、その後現在に至るまで、「貨幣」のシステムは崩壊していない。もし変わったことがあるとすれば、貨幣の大半がデジタル化したことである。お店の買い物では依然として、現金払いの信頼性が高いが、会社同士の取引や高額の取引などでは架空の貨幣が採用されている。
この数値化された「価値」は養老孟子の言う「バカ」を幾許か補償している。
ただ、養老孟子が示唆するのは、「ところが実際には、無駄にお金を回し続けないと経済は成り立たない、という思い込みが世界の常識になっている」ということである。日本は黄金の国といわれたが、特にそう思われたのは金と銀のレートが大陸のレートと異なっていたに過ぎない。それが商売になってあたかも価値を生み出しているような仕事というのは本当の意味でよい仕事と言えるのか?
それから、ホリエモンの言った「金で買えないものはない」発言が結局問題になったのは、お金で換算し得ない価値が存在しえたからである。その価値をある程度はっきりしたものとして認識できるようになれば、人類は新しい進化を遂げたといえるのかもしれない。今連載中のライアーゲームの面白さは、「勝ち負け」と「損得」が異なるゲームをやっていることである。「負けて得をする」のが目的のゲームである。そのためにある程度思い込みのある部分をもう一度見直して、その限界を十分に使いきることが必要なのである。
 
お金を得る方法は色々あるが、極端な二つの例を挙げると、「多くの人を幸福にし、それをある評価法で数値化できるものにする」方法と「だまくらかしてお金を得る」方法である。後者は例えばオレオレ詐欺を組織的に全国チェーンで行う方法などが挙げられるが、明らかに悪質であるから、法律で規制を受けた。しかしながら、「悪質」でも「良質」でもないお金を得る方法もある。たとえば、先ほどの金銀のレートなどは結果的に金の所有者と銀の所有者が変わったに過ぎない。カジノやくじ引きをはじめとするギャンブルは、損をする確率が明らかに高いのに、当たったときの夢を強調することで人々を誘惑している点で「悪質」であるが、それを求める人達の需要を供給している点では「良質」である。
 
アルプス電気は優良企業といえる。が、いかんせん給料が安い。会社のためでなく自分のために仕事をせよとはいうが、やはりお金は重要である。
 
ここまで書いてみてやっぱりおかしいと思うのは、この貨幣経済は人間の生死、人生を全く異なったものに変えてしまう力がありながら、どこか「ゲーム」の様相を呈していることであり、これまでの45億年という生命の営みや歴史をふまえていない、人間の幸福とは本質的に異なる「ゲーム」であるということである。
 
高度経済成長期には結局何を生み出したのかといえば「ごみ」と「環境汚染」である。
いくら経済が発達しても何にもならない。
再生可能社会を常に意識しないといけない。
 
結局自分だけ大金を持って生き残ろうと思えば、うまいこと法律に引っかからないように法律の網をかいくぐって悪巧みを考え続けることが手っ取り早いのである。
だが、それは本質的ではない。
 
親鸞悪人正機という言葉がある。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」。