歴史とは何か

広義の歴史は、過去の積み重ねそのものだが、
日本史の教科書に載っている歴史は、いわゆる勝ち組の歴史である。
それは古い記述が残っているのが勝ち組に関するものだけだから仕方のないことであるが、
日本史の教科書が日本の歴史の全てではない。
しかしながら、大多数の農民の歴史は常に生産者に過ぎずそれほど何の変哲もなかったというのもまた事実であろう。
しかしながら、一方で勝ち組の歴史もどこか狂気じみてそして幼い印象を受ける。
ギリシャ神話の神々に近い。
 
つまり、生きるのに十分な時間と余裕があればわがままを言い出し、やりだすのが人間ということか?
 
日本史をざっと見渡すと、1.弥生時代、2.江戸から明治、3.高度経済成長期の変化が著しいように見える。
1は、野生の暮らしから、定住の暮らしに変わったことである。つまり、移動によって土地を変えなくても、条件のそろった土地であれば移動しなくても生活をマネージメントできるようになったことである。
2は、人力からそれ以外のエネルギー資源を用いるようになったことである。生きるために不可欠ではないが、それが人間の行動範囲を格段に広げる役割を果たしたのは確かである。
3は、電力、水道、ガス、交通、情報のインフラが整ったことであるように思われる。2と3は先の長い歴史から見ればほとんど同時の出来事であると解釈されるであろう。とにかく新しいエネルギー源を人力以外から取り出せるようになってそれが人間の隅々までいきわたるようになって、人間の行動範囲が広くなり、その恩恵を享受する人間も先進国では大多数を占めるようになったということである。
古墳時代から江戸時代までにも無視できない変化や文化の蓄積が存在するが、人間の根本の性質は緩やかな変化であるように思われる。
 
しかしながらこれからの時代はそのエネルギーの恩恵が有限であることに直面しなければならない。あるいは新しいエネルギー源の探索に尽力しなければならない。また、使用できる資源の限界も直視し、再生可能なものをめざす努力をしなければならない。
 
これまでは、一般の庶民と呼ばれる人々が生きて死ぬまでに地球に与える影響はそれほど大したものではなかったのだろうが、近年は庶民1人あたりのエネルギー、資源の消費量は格段に上がり、それに伴う大気汚染、水質汚染、ごみ問題という環境問題に与える影響も増した。そのぶん、庶民はそのことに自覚的でなければならないのだろうが、技術が人々の生活に行き渡るようになっても、人々の態度、精神はそれほど早く進化することはない。生きることに満足し、生きるため以外の欲望をも満たそうとする。全体のバランスを考えるようなことはしない。
で、私のすべきことは何であろうか?
それは、人間をコントロールするような科学の創設である。
発想は全くデスノートと一緒だが、少なくともこのままだと人間の安定な生活はない。
で、もしその科学を否定するならば、というかそんな科学ができるのかもわからないが、
それに対抗するのが人間であるとするのならば、そんな破滅的な未来においても生き続けるのが進化というもので、宇宙においてはそれほどどうでも良いことなのかもしれない。
 
どこか人間には生きる意味がなければならなくて、一人一人に使命があるという発想にとらわれがちだけれども、そんなのは傲慢な発想で、ただ気がつくと自分という人間がいて、気がつかなくなったら死んでいるというだけの話なのかもしれない。
最終的には則天去私の発想。ただ、この宇宙に生きて、この宇宙で死ぬというのが真理である。