正気に戻ってみると

飲み会に行って、「何で教師にならなかったの?」といわれてふと、大学入学から就職活動終了までに自分の心がずいぶんと変動していることに気がついた。 
 
大学入試のときは、自分は将来、社会の中心で何か大きなものを作って働いているというイメージを持っていた。だから現役受験のときはもともと建築学科志望だった。
浪人後、結果的に物理学科に入った。自分の視野を広めたいと思ったからである。
 
大学入学後は教職課程の授業に面白みを感じ、教員になるのも悪くないと思っていた。
ただ、その後の教育実習では自分は向いていないと感じた。
子ども好きという根本的なところが足りていないと思った。
子どもが好きだから教職が面白いと思ったんじゃなくて、
教育という営みが文明のホメオスタシスであるというところを面白いと思ったのである。
現代の赤ん坊も弥生時代にタイムスリップすれば弥生時代に適応するし、弥生時代の赤ん坊が現代にタイムスリップすれば現代に適応するだろう、という発想がそれを支えている。つまり教育しだいで人間は変わりうるだろうという発想である。
もし、これまでの人類の数々の功績や過ちが受け継がれなくなれば、また人類は振り出しに戻ってしまうと思ったのである。そうならないために、歴史が積み重なれば積み重なるほど教育という仕組みもまた進化し続けなければならないと思ったのである。
もう一つは良い先生と悪い先生とは何かを見極めたかったことだが、
それは、生徒から見た教師という観点においてふさわしい人間とふさわしくない人間の区別に過ぎなかった。さまざまな観点から人間の是非は問われるものだと思うようになった。だから良い先生とはこういうもので自分はこういう先生になるというのはそれほど自分の興味をそそらなくなった。
 
塾講師になったときに「なぜ塾講師になったの?」と鈴木さんだか大内さんだかに聞かれたとき、「自分の受けてきた教育が何であったのかを知りたかった」という答えになったのは、つまり教師になることに興味があったのではなくて、教育の仕組みに興味があったのである。
 
世間の人々はよく社会の、特に道徳的な部分の問題の責任を学校などの教育制度に追及することが多いように思う。学校にもやれることは限られている、という配慮はなく、教員への負担は大きい。教員は給料は一律だから、その仕事の範囲はその教師の資質かあるいは良心しだいである。そのくせ、その負担の重さを理解しない人達は学校というものが自分にとって都合の悪いことを都合のいいように押し付けられる制度であると勘違いしている。また、そういう人が増えるようになったとも考えられる。
学校の仕組みはもともと教師以外の人達の協力が重要なものであったのだが、そのことが比較的無意識的に行われてきたために、時代の変化と共に風化してきてしまったように感じる。そのことがはっきりするまでは自分は教師になるのか文科省の役人になるのかも決められなかった。もしその責任がそれらの仕事になくて、社会の側にあるのならば私はその仕事に就く必要はないし、就こうとは思わない。そしてそれが時代の変化による必然的なものであるのならば、全てに責任はなく、新しい道を切り開くだけである。
 
話を戻すと、自分が教師になることで教育が良い方向に向かうという確信があったから、一時期は教師になりたいと思っていたけれども、教師の質が下がったから理科離れが起きた、というわけではないと考えるようになったので、教師以外の道を探していたということである。結局就職と自分の考える理想の教育を結びつけることはできなかったし、結び付ける必要がないというのが答えである。その一つの例が加古さとしさんなのである。
 
知識伝達の効率化というのも自分の興味の対象であった。しかしながら、これからの可能性としてマシンやパソコン、ウェブを用いた情報伝達も考えられると思うようになったので、もし、教職に就くのであれば、教師のあるべき姿はそのインフラを賢く用いる方法を教えることの方がむしろ重要になってくると思っていた。
 
で結局、人間の歴史のホメオスタシスである「教育」は学校現場だけによるのではなく、あらゆる場面で行われるべきであるという結論に達した。加古さとしさんのようにまずは仕事をしながら絵本を書くのでもよいと思った。
自分はネットを利用して、教育に関わっていけると思った。給料は要らない。趣味のようなライフワークである。
結局のところこの世界の仕組み、人間の仕組みを知りたいと思っているわけである。
原点はノーバートウィーナーの「人間機械論」である。
世界の仕組み、人間の仕組みが分かれば、自分のやるべき本当の仕事もおのずと見えてくるはずである。
 
結論は、結局就職先が何であれ、自分のやるべきことを忘れなければ、全く問題ないということである。
そのやるべきことというのが理科の電子教材の作成である。もっと広げれば、e-larning全般の人間への影響調査でもある。
さらにもっと広げて考えれば、時代の変化を見極めながら普遍的な部分も活目していれば、何者にもなれるだろうし、理想の自分になれるだろうということである。
 
この研究室にいるのもアルプス電気に就職するのも、こちらはこちらで、そちらはそちらで自分の才能が発揮できると思ったからだ。
その傍らで自分らしい活動もする。
文句は今のところあるまい。