心は人と人の間にある

            • この文章は1/15にかかれたものである。

 
人の心は、脳にあるのか、はたまた心臓にあるのか。
未だにはっきり、「魂というのは身体のここにあります!」と断言はされていない。
宗教の間では、死んだ後は死体から抜け出て、天に行くという説が流行っている。
そんな気もするが、そうでもない気もする。
私のいう心とは、私は私であるという自我のことである。
 
まず、オトタケさんなどは手や足の先がないけれども、
真っ当な人間なのだから手足には魂はないのだろう。
昨今では色々と完全でないにしろ、臓器はほとんど移植することができる。
臓器が変わって人格が変わったとか聞かないので、臓器にも魂はないだろう。
 
とするとやっぱり脳に自我、心があるのだろうか。
さすがに、脳みそをすっ飛ばされて生きている人はいない。
しかしながら手術で右脳のみ切除した人、あるいは左脳がない人というのを聞いたことがあるが、
そういう場合でも日常生活はそれほど問題はないらしい。
脳幹のあたりにあるとすれば、人間以外の生物も自我や心があるということになるが、果たしてどうなのだろうか。
まあ、犬や馬にも心がありそうに思えるときもあるが。
 
脳にしても、臓器にしても器官である。
臓器は輸送、吸収、排出などを行っているだけである。
脳も神経ネットワークであり、日々必要な計算処理を行っているだけである。
果たしてそんなところに、今自分が感じている「私はここにいる」という実感が存在するのだろうか?
到底、そのようには思えないし、もしネットワークに心が存在するのであれば、
PCもとっくに何か自発的にしゃべりだすのではないか?
あるいはPCはとっくにしゃべり始めていて、器官がないから人間の口を通じて話し始めているかもしれないが。
これはありうる。が、ここではおいておく。
 
一方で人間なのだけれども、狼に育てられた子供。
老夫婦が言葉を覚えさせようとしたが、結局、人間らしくなれなかったらしい。
脳だけあっても、人間らしい心、自我は手に入らないことが伺える。
また、赤ん坊が生まれたときから自分自身を認識しているようにも思えない
(鏡に驚く赤子とかTVでやってたな)。
自分の最も古い記憶は、ベットに寝かされ天井からぶら下がっているくるくる回るおもちゃと上から覗き込む母親の顔の記憶である。
生まれたときから、心や自我があったようには思えない。
 
ここで、私なりの仮説を立ててみる。
自我の獲得には間違いなく脳味噌以上の高度な計算器官、神経ネットワークが必要であると考えられる。
一方で自我は個人の身体の中に器官としてあるのではなく、ひとつの単語と同じような意味空間に存在するのではないか。
 
2台の計算機がお互いの存在を認識するために、しかも意味空間レベルで意思を共有化するために自我が発生したと思われる。
 
自我獲得必要な決定的なものはまず、意味空間形成のための「言語」である。
もうひとつはそれをやり取りするための対象、「他人」が必要である。
そして自分と他人を区別するための「名前」が重要である。
 
名前がかなり決定的で、名前はいわば自我である。
自分が自分を認識するときも、他人が自分を認識するときもこの名前によって個を特定する。
この名前が指しているのは基本的に、自分という意味空間を指している。
 
自分で自分を認識するときは、この自分の身体を改めて見直すことで自分を認識している。
 
赤ん坊が、はじめて名前を呼ばれてから自分の事を指していると認識できるまで、
この間に自分の脳に自分という自我を形成しているのだろう。