まじめに生きる

これから書こうとすることは、別段、今までと何にも変わらず、目新しいものなどない。
 
ふと、まじめに生きようと思った。
これは、「真面目君」などと呼ばれて生きたいという意味ではない。
生きるということについて真剣に取り組もうと思ったということである。
 
 
関連して思いついたことをつらつらと。
 
「がんばったからといって、よい結果になるとは限らないが、
がんばらなければ、良い結果になることはない。」
というフレーズをどこぞやの漫画やポップミュージックで聴いた記憶がある。
まあ、確かにそうだ。
100m走が速くなりたいから、走りまくる。
確かにがんばっている。走らないよりはましだろう。
これは上のほうで否定した「真面目君」である。
しかし、本当に速くなりたいとすると、実際は気をつけることがたくさんあるだろう。
まず、100m走が速いってどういうこと?
ということを筋力や体力、精神状態などに分けて棚卸しする必要がある。
また、今の自分の筋力、体力、精神状態がどのような状態であるかも棚卸しが必要である。
そして、その間にどんなギャップがあって、そのギャップを埋めるのにどんな方法があるかを確認する必要があるだろう。
食事や睡眠、トレーニング方法、適切な装備など必要な知識はたくさんある。
そして、最終的な目標日に対してどの方法が有効かを検証し、計画を立てて実行していく必要がある。
また、その計画がきちんと達成されているかどうかの確認を行い、計画通り行っていればよし、うまくいっていなければなぜ計画が崩れたのかを確認し、今後の計画はどうするか、目標の設定は適切かという見直しが必要である。
本当の意味でがんばるというのは、がむしゃらさも時には大事かもしれないが、後者のように色々と分析し、計画を立てて、振り返りを行いながらやっていくことだと思う。
 
 
本当に、人生を思い通りにするのに必要なものは何だろうか?
金だろうか、権力だろうか、人脈だろうか、軍事力だろうか。
色々考えたが、「正しい認識」をすることが人生を思い通りにする方法だろうと思っている。
ダンスの振り付け、テレビを見てかっこいいな、と思った振り付けを踊って、自分自身を撮影してみる。
なかなか思うようには踊れていない。正しくそのダンスを理解していないのである。
自分の顔、紙に書いてみる。
なかなか似ているようにはならない。自分の顔を正確には記憶していないのである。
自分の足の小指と薬指、
なかなかはさみを使ったりはできない。筋肉の動きをうまくコントロールできないのである。
自分の身近なことでさえ、実際はうまく操作したり、表現したりはできていないのである。
本当にうまくやろうとすると、訓練が必要なのである。
また、私たちは毎日歩いたり文字を書いたりしているが、いくら毎日やっても意識を集中して訓練しなければ
モデルさんのように美しく歩いたり、文字がうまくなったりはしないのである。
 
何で自分はお金持ちになれないのか、
お前はいままで自分の使った金の金額を覚えているのか。
何で自分はもてないのか、
相手の会話の意味をきちんと理解しているのか。まあ、ほかにも色々あるだろうけど。
何で自分は不幸なのか、
幸福な自分がどんな自分であるかを詳細に思い浮かべられるのか。
 
敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、という言葉がある。
思い通りやるというのはこういうことだと思う。
 
 
スポーツなどで一生懸命やるというと、
つい、体をいじめるような過酷なトレーニングを連想するかもしれない。
しかし、実際過酷なトレーニングは精神のトレーニングであって、本当の意味での身体のトレーニングではないような気がする。
スポーツは正確な身体の動きが重要なので、集中した反復練習が必要である。
筋力をつけたければ多少筋肉痛が出る程度の負荷で行うべきだ。
激しく体を痛めつけるようなことは、長い目で見るとプラスにならないかもしれない。
そして、十分な休息のほうが重要だと思っている。
怪我を押してプレーするより、降板したほうが良いことだってある。
 
 
同じ行動でも、どういう気持ちで行うかで全く異なる。
生きるために肉を食べる。
ほかの命を殺している。
同じ食べるにしても、それを意識しているか、していないかで全く別物のような気がする。
 
行動が同じだから、他人からの批判は同じになる。
でも自分の行動を自分でどう評価するかのほうが大事である。