どうすんだ

とにかく、何をやったらいいかわからない。
 
まず、どっから考えるべきか。
社会人5年目、30歳。
仕事の状況は良くもなく、悪くもなく。
 
世の中の情勢は不安定である。
1つの自然災害が、
1つの金融問題が、
1つの電気製品が、
1つの領土問題が、
たちまち世界中に影響を及ぼすような状態である。
常にバタフライ効果が起こっているような状況だ。
私個人も、ブログへの投稿、動画の配信、デモ活動など、やろうと思えば
世界に発信できる術をもっている。
 
このような世界は、恐らく、過去には類を見ないだろう。
互いが互いに複雑に干渉しあうので、あるひとつのことをうまくやろうとするならば、
そのために常に非常に多くの出来事に目を向けて、耳を傾けていなければならない。
はっきり言って、そんな偉業は万人にできることではない。
私もできないし、そもそもやりたくない。
 
なぜ生きるのか?
ひとつは高次組織化だと思っている。
万物の元となるクオークがあって、
そこから、電子や中性子が生まれて、
原子や分子ができて
結晶や錯体、有機物ができて
アミノ酸やらたんぱく質ができて、
ウイルスや細胞ができて、
多細胞生物ができて、
ミジンコやゾウリムシみたいな微生物が生まれて、
植物や虫や動物や恐竜が生まれて、
人間が生まれて、
民族ができて、
村ができて、
町ができて、
都市ができて、
国ができて、
国家共同体ができて。
というようにだんだんと組織的な組み合わせになって複雑化しているのが
この世界である。
このような世界では個々は同一なものであるよりも、
別のものであって役割分担するほうが効率が良い。
よって、この組織化を肯定するならば、個々人は巨大な組織を意識しつつ、
個人の果たすべき役割を認識して、それに従って行動することが求められることになる。
 
ところで、この宇宙において一体、何にすがって、何を信じて、何のために行動を起こせばよいのか。
その複雑化した組織の存在意義は果たして一体何なのか?
それを知るためにはまず、この世界の理を考える必要があるだろう。
我々はともすると、自分のために世界があるように勘違いしてしまう。
この貴重な空気中の酸素も、まるで、吸ってくださいといわんばかりにわれわれの周りにある。
そうではない。
この空気を吸って生きる生物がたまたま生き残っただけで、その延長線上にたまたま自分がいただけである。
自分のために周りの環境があるのではなく、環境によって我々が発生したに過ぎない。
なので、環境が大きく変化すると、我々の存在は簡単に危機的状況になる。
絶滅だってたいして不思議ではない。
環境の意のままに、宇宙の意のままに、応じるしかないのである。
 
地球温暖化とか、フロンガスとか、ごみ問題とかの環境問題を聞くと、
環境というのは外部のものであって、自分たちを環境から隔離してしまえば、遠ざけてしまえば問題ないという感覚や、
自分には手に負えないという感覚を持つ。
 
たとえば、温暖化という問題に対して個人は、別に無理して食い止めなくても、
北の方に引っ越せば平気(南半球なら南)とか、電気代が高くなるけどクーラーを使えば大丈夫というような発想を持つかもしれない。
これについては色々言いようがあるが、結論から言うと、我々の存在は非常に微妙なバランスの上に成立しているので、それで問題は全く解決しない。
クーラーを使えば大丈夫という発想は個人としては一時的に合理的な行動だが、全体で考えると元も子もない発想である。
たとえば、日照りや天候不順で植物が枯れ果てて、それを食べる動物が飢えて、我々の食べるものがなくなるとか、
今まで、伝染しなかったような病原菌が強い感染力を持って人間を即死させるとか、
そういった人類が滅亡するようなことが起こりえないとは言えないのである。むしろ起きてもあまり不思議ではないのである。
それは宇宙のほかの星々を見ても容易に知れる。
地球のような環境を持った星のほうが圧倒的に珍しく、砂と岩石と氷だらけの大地のほうが普通なのである。
そして、地球を砂と岩石と氷だらけの大地にすることは実はそれほど難しいことでもなく、また、一度やってしまうと元に戻すことは恐らくほとんど不可能である。
 
別にそれが良いとか悪いとかではない。この宇宙はそういう風にできているというだけのことである。
一時、ある特定の生物が繁栄を極めるが、ちょっとした環境の変化であっという間に滅亡してしまうというようなことはよくあるということである。
恐竜の化石などが良い例である。
 
さて、こんな圧倒的な宇宙を前に、私個人はどう生きて行ったらよいのでしょう。
まずは、自分個人が、様々なものとつながっていること、この宇宙全体と一体であることを認識すべきと考える。
こういってしまうと、あたかも宗教の教祖の言葉のようであるが。
たとえば、自分の身体の一部の水分は、時として排出され、川に流れ、海に流れる。
逆に、海で蒸発した水分が、雨となって降り、またその水を摂取する、ということは毎日起きている。
このように、自分の身体の一部であったものが、時として海の一部となり、また、海の一部であったものが時として、自分の身体の一部になっている。
別に水に限らず、土も、鉄もそうである。
この体はこの宇宙にあるものと、たえず物質のやり取りをしているのである。そういう意味で、私は宇宙の一部である。

なので、「私」というものを考えるときに、この体重○○kgの体をイメージするのではなく、
外界とつながった自分、環境から生まれた自分というものを意識して考える必要がある。
 
さて、では何を礎に自分の行動を決めるか。
それは「感情」である。もっと言えば「心」である。
はっきり言って、これが絶対に正しいと証明できる人間の行動は何もない。
プロスポーツ選手のファインプレーや営業マンの必死の営業活動が、この宇宙をより良いものにしているかどうかなど、分かりようがない。
では、何を基準にすべきかといえば、自分の心以外に頼るものはない。
親の言うことが正しい保証もなく、教師や総理大臣の話が正しい保証もない。どこの宗教が良いというものでもない。
ただ、生まれたときから持っている感情、自分の心以外に、人間としてすがれる物はない。
自分が正しいと感じることをやって、悪いと感じることをしないようにするだけである。
これが、環境から生まれた人間の使命であると私は思う。