教えない教育

        • この記事は3/2に書かれたものである。

 
文部科学省の方針はきめ細かな教育プログラムである。
これは実は独立の精神に反するものではないか?(下段:教育プログラム、と関連)
また、教員の仕事量をいたずらに増やすものではないか?
私の経験からすると、きちんと学ぼうと思うためには、安心できる環境が不可欠だ。
いじめをはじめとする子供たちの心の不安材料は学力に深刻な影響があるはずだ。
一時期、ゆとり教育への誤解から国の教育費の削減が起こり、その反動で親の教育熱が増した。
結果、比較的裕福な家庭はこれまでどおりの学力を得たが、余裕のない家庭は子供の学力の低下を招いた。学力の差は貧富の差につながり、結果世の中はギスギスしたものになる。
さらにその反動で、教育熱は増すという根拠のない悪循環。
子供たちにはこんな状況は大きなストレスだ。これが全体的に教育の質を下げる。
 
近年、子供たちの学力が下がり気味だというが、上の要因が一つあるように思う。
もう一つは子供の「自分で自由に獲得したもの」と、「与えられたもの」のバランスが不足しているからではないか?
塾で教えていたときに驚いたのが、小学6年生が「%」って何?と質問してきたことだ。
天気予報などを見ておれば、降水確率ぐらいでている。それくらい親が教えるもんだろう?
と思った。おそらく自分のときは親子で天気予報を見ているときに
「%って何?」と親に聞き、
「1%は百分の一だ」と教わったのだろう。
自分で質問したものはたいてい覚える。
実は最近、子供たちからこの手の「常識」を高度な学問であるかのように質問されたりすることがある。
つまり子供たちが習い事や塾で多忙になりすぎた結果、自分で考えて身近な人に質問する時間も、家庭や地域でゆっくり常識的な知識を蓄える時間もないのかもしれない。不安を、お金をかけることで解消しようとする今の大人の心理の弊害ではないか。
 
”失敗ゼロ”の心理も影響があろう。
間違ってはいけない、失敗したら終わりだという強迫観念の元では、自由な発想は生まれにくい。見当はずれな質問もできない。ネットで匿名者が圧倒的に多いのは、間違ったことを本名を挙げていってしまうと、社会的地位も奪われてしまうという恐怖感から来るのではないか?
日本には流言飛語を真に受ける人が多すぎるのかもしれない。
逆にそんなことを言う人がいても、適度に相手にできるぐらいの寛容さが必要なのだろう。
 
こうやって見ていくと、ゆとり教育以前の教育のバランスというのは非常に巧緻で複雑なものであったのかもしれない。そのバランスを理解できない人達が安易に教育制度の改革などを行うと、破滅的、壊滅的な結果になる恐れがある。それは、自然にとってよかろうと思ってした行為が逆に環境を著しく破壊してしまうのと似ている。
改革はするのは結構だが、その改革の賛否両論を煮詰めて、やるべきかどうかを現場を含めた様々な人々の意見も取り入れた上で議論しつくしたもの以外はやってはいけないと思うのだ。子供はリセットできないのだから。
 
待つのは愚問である。
自分で始めるほうが本物だ。
 
私は「教えない教育」を一つ推奨する。
こういうと、ゆとり教育のときのように財源を削減される恐れがあるので、ネーミングはよくないと思う。
うちの塾の室長は「教えなくていいから考えさせろ、自分の疑問の答えがレンジでチンすりゃ出て来るような現実ではない」という旨のことを言う。
全くその通りだと思う(これで講師が手抜きをしていいというわけではない)。
小学生のうちは大人と比べて、詰め込めば詰め込んだだけ入る。
受験で点数を稼ごうとするとそのほうが手っ取り早い。
だがその理屈は、人間を機械として扱うということに等しい。
人の脳や心をHDD化しているのである。
しかし、人間に降りかかる様々な困難が教科書に載っているわけではない。
悩んだり考えたりするから人間らしいのではないか?
教科書はあくまで、考える材料であって、覚える対象ではない。
頭ではわかっている教師も、受験の波に飲み込まれてしまう。
 
教育プログラムという言葉がある。
ゲームが好きな人はこういうプログラムとかで育ったのだろうか?
やたら分かりやすくて誘導的な流れを魚のような目で泳いでゆく。
プログラムということは、ここを通ると同じような製品や人が出てくるという理屈だろうか?
これも人間を機械として扱っていないか?
 
私が始めようとしていることは、教育ではなく、
人々が表現する場を色々と作ることである。
 
 
話は変わって、
仕事をしながら学ぶとすればこれから何を学ぶか?
お金はほしいので株の勉強をしたい(その金を様々な人への投資としたい(奨学金))。
人間工学、教育工学。
言語フーリエ
日本と海外の歴史と教育。
情報技術。
芸術。