ああ結局全部見ちまった

2日間で涼宮ハルヒを見終わってしまった。
 
よくできていたと思う。
ガンダムやらエヴァンゲリオンやらを知らんと話が分からない部分とかもあって、
古い古典がさらに古い古典を読まねばならぬように、現代は現代で引用が起こっていることが分かった。
開国と大戦という時代の壁が古典の引用を妨げている。この取っ払い作業と壁の理解が日本を次のフェーズに移すと期待している。
日本は世界初の新国家となりうるか。既になっているのか。もっと勉強が必要だ。
 
それにしても日本の文化は過去も現代もよくできている。
人間の新しい可能性を生み出す土台、四季があるのだ。
 
しかし14話で終わりなのはちと寂しい。
まあ、アニメの最終回なんていつもそんなもんだ。
現実あっての空想世界だ。
現実は不連続になったことがない。
 
古い時代の人々がこんなインターネットが発達する前にも優れた豊かな思想を持っていたのはとてつもない想像力であり、それこそ過去から学ぶべき人間らしさである。
 
人類の歴史はまだ浅い。たった2千年程度である。挑戦すべきことも反省すべきこともたくさんあるに違いない。
 
それにしても本来、空想で補われるべき人間の人間らしさは、現実を直接変える事までして見せた。そして、人と人の壁が取っ払われることは永遠にないという絶望に改めて立ち向かわなければならなくなったのだ。電子情報は全てネットでつながっている。人の本来の性質が脳に宿るものならば、体はコミュニケーションの媒体であると同時に、絶望的な壁である。
 
あ、涼宮ハルヒ安部公房の壁も引用してないか?
 
安部公房はその壁にこそ人間の無限の可能性を見つけたという。確かに全ての壁が取っ払われたら、エヴァンゲリオンの補完である。インターネットでは擬似的にその補完が行われている。そして現実世界にはやはり圧倒的な壁がありそこに絶望的に立ち向かうことこそ人間の人間らしさなのである。たぶん。
 
で、「自分だけがこういうことを考えているんだ」というのが全国の共通認識となったとしたら、ちょっと自分の価値が薄れる。自分だけかもしくは一部の人しかこういうことを考えいないという状況が自分の存在価値なのである。
じゃあ、もし自分の考えが本当に全ての共通認識となったとしたら、そしたらそのときはその人達に役目を譲って、自分はのんびりとした日常を送ることを考えよう。
最近読んだ中央公論の文章と、中学校時代の友人の文集に共通の認識を見つけた。
意外とみんな考えていて、だから自分は難しいことは頭のいい人達に任せて、普通の人生を歩めばいいのかもしれない。そしたら、ロボットやパソコンや書道や漫画なんかに精を出せばいいのだろう。ああ、そんな人生も良いな。