次の一手

大学に入ってから、同じ学部の気の合う数人の友人と話す時間が多かったが、
今にして思えば、あいつらは俺よりもその専門が好きなんだな、ということを改めて思った。
 
そのとき自分はがんばってそいつらと歩調を合わせていたが、
大学院で一人でやっている今はどうもだめだ。
根本的に向いてない。
やる気が起きない。
 
これまでの、自分の行動の本懐をさぐってみると、
小学校中学校ぐらいまでは勉強そのものが好きだったところもあるのだろうが、
高校大学では先生のつける成績を如何に良くするかということを考えていたように思う。
あるいは恥をかかない程度にがんばることばかりに神経が行っていたと思う。
だからたぶんつまらない人間だったと思う。
そんなことが行動の根本的な基準だったから、人付き合いも考えてみるとそんなに良くない。
知人と呼べる人は多いが、一緒に飲んでいて気が置けない人間というのは本当に限られている。
そういえば幼稚園時代も先生の話を聞いていなくて横の子が何をするのかを見ていた。
要は、物の本質よりも体面で何とかしてしまおうという気質がこのときからすでにあったのだ。
 
本懐についてだが、
中学生のときに飛ばした紙飛行機、アレがたぶん原点だ。怒られた。でも飛ばしたかった。
体育館で朝礼をやっているときに紙飛行機を飛ばしたらどんなに愉快だろうと思っていた。
理大祭で紙飛行機をやろうとしたが圧倒的な反対で諦めた。
でも、諦めてはいけなかったように思う。
あとは哲学か、流動的なこの世界を如何に判別するという。
後はゲームをやりたいと思ったり、何かを操作したいと思ったりすることだ。
しかしながら、じゃあこれらで人を楽しませたり、人の役に立ったり、一番になったりできるかというと、結局のところ世の中のどこにでもあるようなことしかできない。
今の専門は全くついていけていないし、これで商売ができるとも思えない。
しかも自分がつまらないと思っている。
 
思い返せば実の所、中学で生徒会をやったのは間違いだったと思っている。
小学校高学年のとき塾に行かされたのも間違いだったと思っている。
やりたくもないことに時間を使いすぎて、やりたくないことを如何に我慢してやるか、その状況に反抗せずに如何に妥協し、満足しきるかに時間と労力を使いすぎて、結局自分が何をやりたいのかもよく分からなくなってしまったし、自分がやりたいことを探すチャンスもパワーも失ってしまった。もう後はきっとつまらない人生になってしまう。社会の要求に逆らうこともできず、タダタダ流されていくだけ。ショボイ人生だ。
もともと勉強が好きで、目的が勉強そのものだったのが、
目的をなんだか別のものにすりかえられてしまったように思った。
進路とか注目を浴びるだとか。もうこの時点でかなりショボイ。
 
高校でアメフトをやっているときは頭は「関東制覇」だったが、どうやったらそれができるのかを自分で真剣に考えなかった。ないとは分かっていても、考え方は「先輩達はそういう関東制覇のマニュアルをもっていて、僕はそれに忠実に従えばよい」という発想だったと思う。
それこそ寺本さんの言う「他人に考えてもらおうとするな」という忠告が当てはまる。
やっぱりアメフトじゃなくて、やりたかったバスケをやるべきだったんだろうと思う。
あの時先輩の演説で入部してしまったが、アレは良く考えれば宗教みたいなモンだったのだ。
小学校低学年時代に隊長家来ごっこの家来ばかりやっていたのが良くなかったか、もともと生まれつき家来向きだったのか知らないが、高校1年生までは自分の頭を押さえつけるものにむしろ甘んじていたというわけだった。高校2年になってからはアメフト部では先輩になったが、きっと自分で考えようとしない駄目な先輩だっただろうなと思う。よく平井さんには「OBのいうことを参考にするのはいいけど自分で考えないと駄目だよ」と言われていたが、なんとなくその意味が分かった。もしかするとそれは父の根拠のない横暴のせいであったのかもしれない。はじめのうちはそれに従ってそのときは間違いではなかったが、よく考えると少しずつ間違いを重ねていたように思う。あるいはもしかするとそういう性格だったのかもしれない、その成れの果てが今の自分だ。大学に入った直後はきっと不満だったのだ、これまでの教育というのが。だから教職課程をやりきったのだ。やり切れたのだ。
 
今は、なんだか色々あって色々反省する時間でいいような気がしてきた。
とにかくどうにもならない。
もともと自分が何をやりたいのかを見極める目的もあって、大学院に残ったのだが、結局よく分からないものに振り回されて、時間を無駄に使ってしまった感がある。
 
会社から、生活習慣を戻すこと、大学院を終えること、英語を鍛えることという通達が来た。
頭を押さえつけられることに甘んじ続けるならば、それをやりがいと感じるならば、規則正しい生活と共に興味もないのに勉強し、修論を書き上げ、TOEICでよい点数を取ればいいのだろう。でもそんな状態に甘んじないとすれば、大きな目的も全部自分で考えて、自分の責任でやらないといけない。はっきり言って前者の方がラクで給料は低いし、後者の方が大変でリスクが大きくて給料は不確定と言う構図になるだろう。要は甘んじている方が生物として生きていくだけのためならばずっとラクなのだ。
 
AKIRAを見ていて、ふと、これまで自分の認識していた世界に比べると、突然認識できるようになった実際の世界は実はもっとずっとグロテスクに複雑に乱暴に乱雑にできていると思った。なんとなく大事に育てられて、いい環境で育ってしまったから気がつかなかったが、とんでもない世界というのはある。認識の仕方しだいだとは思うが。
 
茂木先生は「挫折を味合わない人間は自分が何者かを再確認する必要に迫られず、結局自分が何者かよく分かっていない可能性がある」という旨のことを言っていた。
今挫折しているとは思うが、自分が何者なのかはよく分からない。
サイクリングは楽しいが、これが本懐だとは思わない。
全くもって、ナンバーワンではなくオンリーワンを目指したいところだ。
自分でやりたいことを探すんじゃなくて、自分でやりたいことを作るのだ。
今は、この複雑な世界を少しでも総覧しやすいような視点を設けてそれを皆に使ってもらいたいという欲求がある。新しい学問の創設。あるいは既存の学問の再構成。それと学校教育のカリキュラム編成。そんなことが頭をよぎっている。
 
もっとこの世界と戦わなければならないのか?
ああ、ひっくり返す勢いでやってやるさ。
大掃除だ、人類の堆積物の大掃除が必要なんだ。