バブルについて考える

そこまで経済に詳しくないがバブルについて考えてみる。
 
wikipediaを見れば書いてあるだろうが、見る前に自分なりに。
要は、実際の価値以上に市場での価値予想が膨らんでいる状態である。
 
最終的に実際の価値が予想に追いつけばバブルにはならないが、
たいていそうはならない。
 
2008年に中国に行ったときに、ろくに耐震性もないような新築の高層アパートが乱立している状態を見て、
すぐさまバブルだなと思った。
アパートの並び方がまるで子どもが作ったジオラマのような、
自然や歴史や近隣や将来への配慮が欠如した如何にも中国らしい短絡的なやり方だと思った。
恐らく、たいして調査、検証、検討、討論、目算もなしに始めたのだろう。
やっかいなのはそういったこともなしに一部の権力者が金と権力を振りまいてそういったことができてしまう体質が問題だろう。
まあ、最終的に裕福な中国人がたくさん生まれてそこに住んでくれるようになれば問題ないだろうが、
少なくとも私はあのアパートで囚われたように生活している幸福な自分というものをイメージできなかった。
 
価値があるかどうかは、「こういうふうにしたい、なって欲しい」と思ったことが、イメージどおりに、素早く、快適にできることだろう。そういった周りの人々の希望を叶えられる物に価値が生まれる。
しかしながら、世の中の仕組みは一つのことが様々に影響しあっているので、配慮のない願いというのは叶えてはいけない。ドラえもんの道具は願いを叶えるものであるが、もし1つでも普及させるのであれば、悪用防止のための抑止力と法律の整備がさぞかし大変なことだろう。
価値の高い物は、願いをかなえるものでありかつ、配慮のあるものである。
ドラえもんは配慮があるからあの道具を使っても良いが、のび太はまず配慮に欠けるのでたいてい最後に痛い目にあう。
 
価値があるかどうかは、もっと簡単な言葉で言えば幸福のためのものである。
幸福は人によって違い、定義しきれない。結局のところ経済と幸福観というのは密接である。
その時代の幸福の概念をうまく捉えたところに経済が良く回る。
そんでもって、うまく捉えられなかったものがバブルである。